今日は当社の建築デザインについて文学的に批評したいと考えます。

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都市の過密や貧困だけでなく、富裕層やファンドが不動産を購入し、運用し、売却して超過利潤を得るプロセスも現代の大都市のリアリズムである。これはジェントリフィケーションのプロセスでもあるため安い家が求められるわけではない。安く作った建築が「売れる」わけではない、つまり安く作ることは必ずしも資本の論理に適さない。しかし現代の主流の建築がそのテーマに正面から向き合ってきたとは言いがたい。

(1)東京

 

投資用建築に対して地域の住民は無関心であるか、または敵対的である。それゆえ、このジャンルの建築は地域に対し無害であること、または地域性に馴染んでいることを主張し他者としての地域とのコンフリクトを避ける必要がある。ここで批判的地域主義・文脈主義の手法が部分的に、リスク回避的に採用される。

 

「都市という砂漠の特に荒廃した領域では、場所に強度がなく、最初から喚起すべき記憶が存在しない※」とされるが、ミクロ的には詩的に読み解くべき痕跡は都市の中のどの場所にも微かにではあるが存在する。この建物を建てるために取り壊された工場倉庫、周囲の住宅の大きさ、最寄りの駅の駅名の由来、かつては賑わっていた駅前の商店街や取り壊された商店、朝になると路地を通学する子供、といった小さく強度の弱い文脈の微かに残っている部分を直喩的にあるいは隠喩的に建築に取り込んでいき、建築を「無害な」ものとする文学的なプロセスが投資用建築には必要となる。

具体的には高さ制限、ボリュームを分節するリズム、開口の方向、空地部分のランドスケープ、仕上げ材の色彩やテクスチャ、といった技巧的な手法によって投資用建築と周辺の街並みを少しでも和解させることを目指す。結果として、全体としてミニマルでシンプルな建築の中に敷地のコンテクストの意味が少し含まれた建築作品となり、シリーズでありながらも各々微妙な個性を持つこととなる。

 

この建築は永続しない。おそらく将来保存されることもない。30年や50年という期間を限定して「そこにある」あるいは「あった」モノとなり、都市のコンテクストの一部となる。都市や地球の歴史から見れば短い、しかし1人の人の人生にとっては十分に長いその数十年という期間の間に、自分が確かにそこに暮らしたという記憶を、その時間を、かつて入居していた人に呼び起こす装置としても機能することを投資用建築のデザインは目指している。それは、地域に溶け込まず来ては去っていき、コミュニティ的な建築手法という救済からも疎外された現代都市のワンルームマンションの住民にとって救いとなる事実ではないだろうか。

 

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※:五十嵐太郎 ”批判的地域主義再考” 『10+1』 No.18  pp.205-216

図(1)・(2) 写真ACより筆者購入